大人の読書感想文。

30代独身女の読書感想文と頭の中。恋愛も仕事も中途半端な私が本を読みながら生き辛さと向き合います。

何故私はブログを書くのか。

こんにちは、白です。

今日は胸がザワザワとしているので、それを文章にまとめてみたくなりました。

 

ブログをはじめて1週間。たった1週間の間に、沢山の考えが頭の中を巡るようになりました。自分の人生の浅さや、将来への不安、そして無知な自分。文章を書くことで、そんなネガティブな気持ちに支配されてしまいながら、自分と向き合っているような気がします。

自分と向き合うことは恐ろしいことです。

これが恐ろしくなくなることは、果たしてあるのでしょうか。

 

そもそも何故ブログをはじめたのか、それすら私はきちんと人に伝えられないのです。でも根底にはきっと、誰かの役に立ちたい、という気持ちがあったはずです。それが出来ているのか、いや、続ける事で出来るようになるのか、ということに不安を感じているのでしょう。

 

だからGoogle先生に聞きました。

『ブログ なんのため』

長くブログを続けている方々の考えに触れて、私がこれを考えるタイミングは、ブログを開設する前だったな、と笑ってしまいました。

将来のことも自分のことも、何も考えずに生きていたということを、ブログを通して突きつけられているような気がしています。

 

 

私の本業はカメラマンです。

でも別に、すごく熱い気持ちでカメラマンになった訳ではありませんでした。

全く別の仕事をしていました。その会社の先行きを不安に感じて転職してみましたが上手くいかず、現実逃避をしている時に、カメラマンの求人を見つけたのです。なんとなく応募して、運良く採用された。

ただそれだけで始めた仕事でした。

 

思えば私の人生はそんなことばかりでした。

 

地元の高校に行きたくなくて、母から勧められた遠い高校に行っただけ。

母が病に倒れたから、喜ぶかな?と思い看護師になりたい、という台詞を吐いたら母が喜んだ。だから看護学校に行っただけ。

看護学校を辞めた時、そんなやつは風俗嬢にでもなればいい、という言葉を真に受けて、風俗嬢になっただけ。

風俗を辞めて、姉からなんか仕事しろってパソコンの前に座らされて、たまたま一番上にあった飲食店に応募したら採用されたからそこで働いただけ。

飲食店を辞めて、もっと楽な仕事がしたくてタウンワークを見ていたら、見つけた時給の安いアルバイト。そこで働くことになって就職したけれど、それも、なんとなくでしかなかったのです。

 

全部が虚です。

 

その場その場で与えられた役割はそれなりにこなしましたが、自分自身が何がしたいのかなんてことは、真面目に考えたことがありませんでした。

運が良かったのか、仕事で出会う人というのは尊敬出来る人、影響を受ける人が多く、それなりに充実していたと思います。

でもやはり、自分というものに向き合って、何がしたくてどうなりたいのか、ということは考えてこなかったのです。

 

今のカメラの仕事は好きです。

営業写真というジャンルになりますが、やりがいもある、信念もある。誇りもあります。ですがカメラマンです、と人に伝えた時に必ず言われる言葉に私はいつも困るのです。

 

じゃぁ将来は独立したいんだね!

 

カメラマンとして独立したい程、私の人生をカメラ一色にしていきたいのか。そもそも始めた動機も不明です。続けている理由も不明です。今の会社で、与えられた仕事だからやっていけているだけなのです。私の持っている信念すら、会社に与えられているものなのかもしれません。

 

ここまでくると、面白い程に自分が虚で空っぽです。

 

そんな私が自分を振り返った時に、私の好きなものってなんだ?ということでした。それが本を読むことだったのです。だから、本を読んでブログが書きたい、と思い立ってブログをはじめてみたのです。

では、このブログの目的は?目指すところは?

それを掘り下げていかなくてはいけないなと、そんなことを考えると、もう眠れません。

 

思えば私には、誰かの役に立ちたいという欲求を、恋愛で埋めようとする悪い癖があります。それを繰り返すから、私の恋愛は巡り巡って振り出しです。そして決して満たされることはないのです。

 

自分自身の本当にやりたいこと。それが誰かの役に立つような形にしていきたい。

このブログを通して。

 

この記事を一か月後、一年後の自分が読んだ時にどう思うのか。その頃に成長しているために、本を読み続け、文章を書き続けたいと思いました。

 

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4冊目 ぼくが見た太平洋戦争

こんにちは、白です。

 

今日は読書感想文!

ちょっと重い。

 

宗田理[ぼくが見た太平洋戦争]です。

古本屋さんをフラフラしていたら久しぶりに宗田理先生の名前を見かけてつい買ってしまったこの本。宗田理先生といえば[ぼくらの七日間戦争]。小学校時代に夢中になって読んでいたぼくらのシリーズ。この頃が一番本を読んでいた気がします。でも当時読んだ本の内容をほとんど覚えていないのです。面白かった!夢中になってた!という記憶しかない…。

 

そして今回読んだ[ぼくが見た太平洋戦争]は、小説ではなく体験談。中学生向けの本なので小一時間あれば読めてしまうものでしたが、その小一時間が濃い。すごく濃い。2、3日いやそれ以上かな、少し重たいものが心に纏わり付きます。でも、読んで良かったと思います。

 

教科書には乗っていない本当の体験談。恋愛小説を読んで、男女が恋に落ちるという世界を嘘のように感じる学生。当時の学生が感じていたこと。公にならなかった大震災の話。2つの原爆の影に消えた、豊川の大空襲。防空壕に入れなかった人々の逃げ惑う姿。

 

不思議と涙は出ませんでした。

ただただ、呆然とするような、戦争の体験談。

 

なぜ戦争が始まったのか、どんな被害があったのか、どうやって戦争が終わって、その後の日本がどうなってゆくのか。それは学校で習うことだったかもしれませんが、こんな生々しい体験談は聞いたことがなかった、もしくは耳を塞いでいたのか。

 

戦争なんてまっぴらだ!と、大きく書かれた表紙に激しく賛同する以外ありませんでした。

 

戦争になれば学校に行かなくていいのに、なんて一瞬でも思っていた学生時代を恥ずかしく思いましたし、それを言葉に発した時の祖父母の怒りは最もだとしか言いようがありませんでした。

 

私の祖父母は太平洋戦争の経験者。小さい頃から2人はよく戦争の話を私にしていたけれど、私は聞きたくない、と突っぱねていました。学校で習ったことだけでいい。それくらい戦争は遠い話だったのです。

 

祖父母はとても厳しい人でした。物心つくころから祖父母と同居だった私にとって、他の友達が話す優しいお爺ちゃんお婆ちゃんなんかではなく、怖くて、厳しくて、鬱陶しい存在だったのです。それは大人になってからは更に強くなり、特に祖母とはよく喧嘩をしていました。

そんな祖母ともさすがに今は喧嘩することもなく、のんびりとお茶を飲みながら話せるような関係になりましたが、果たして私は祖母の事をどれだけ知っているのでしょうか。

そんな事を考えた時にふと、彼女は戦争を経験している。私達よりも、はるかに厳しい時代を生きてきた人だ。そんな時代でも、勉学をすることが幸せになることだと信じて、家族の反対を押し切って大学まで行った祖母。

そんな祖母ともっと話をしたいと思いました。

戦争の無い時代に生まれた私達を、恵まれていると頭では理解が出来ていても、心からそう思うことはなかったと思うのです。

今の日本を作り上げた先人への感謝だって、私はもっていませんでした。何も無い時代から、仕事をして、家庭を築き、家を持ち、私達孫世代は何不自由なく生きている。

だからと言って、今恵まれてるのだから全部我慢しろ!というわけではなく、恵まれてるからこその悩みや辛さがあるということも理解してくれる祖母の強さなんかを感じました。

そんなことを、先日祖母に会いに行って話してみたら、祖母が少し涙ぐみながら、当時の話や、祖母の母の話などをしてくれました。今まで私にしてくれていた楽しい話だけではなく、悲しみや苦しみも少し話してくれました。そして祖父が書いた書物なども貸してくれました。

 

こうやって、本を読むたびに今までの関係に新しい風が吹く。祖母も大変な読書家なので、今後は二人で読んだ本の感想なんかを言い合いたいね、と言って帰宅しました。

あと何回会えるのか分からないけれど、出来るだけたくさん話したい。そう思いました。

 

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同窓会

こんにちは、白です。

今日もただの日記です。

日が変わってしまいましたが、毎日更新…!

 

私の小学校時代、中学校時代は、あまり良い思い出はないと思っていました。誰といても感じるなんとなくの違和感。それを感じながら過ごす学生時代。女子同士のある日突然始まる素っ気ない態度。そういうものに怯えるような毎日でした。そしてそれを相談出来るような友達は誰一人いなかったのです。

小学三年生と四年生のクラスは楽しかった。そんな記憶はありました。その頃仲良くしていた人達は、転校してしまったりクラスが変わってしまったり、中学校は別のところへ行ってしまったり。

中学時代なんてもう記憶の彼方へ飛ばす程嫌な思い出ばかりでした。いじめられた訳ではありませんが、学校に行きたくない。そればかりでした。

それでも思春期の当時は、一人でいられるほどの強さはなくて、学校にいる間は無理して誰かにつきまとい、家にいる時間、本を読む時間とピアノを弾く時間に癒されていた毎日でした。

地元の人が誰もいない高校に行きたい。

それを目標に高校受験に励んでおりました。

 

そんな地元の同窓会に、初めて行ってみました。

 

行くと決めたものの行きたくなさ過ぎて、電車の中ではお腹が痛くなり、Twitterで延々と『同窓会に行きたくない』を検索。読んでいると皆似たようなもんだと知ってちょっと安心する自分。

安心したところでちょうど読み途中だった新書、

[凡人として生きるということ]押井守

を読んでいました。

 

青春は本当に素晴らしいものだったのか、若さとは本当に価値があるのか、歳を重ねることはネガティブなことなのか。

そんなようなことが書いてあり、なんて今の自分にピッタリな本を選んだのだと自分で自分を褒めてあげていました。本を読んでいるうちに心も落ち着きました。やっぱり読書っていいものです。

同窓会行きたくないよー!って誰かに話を聞いてもらうよりも、よっぽど前向きになれます。

迷子になりながらも遅刻して会場に到着。

結論から言うと、楽しかったです。

そう、楽しかったのです。

あの頃すごく仲良かったよね!と、言ってもらえることは、大変嬉しく思いました。うん、多分きっと仲良かった。自分も覚えていないような昔話も、話しているうちに思い出す過去の記憶も、普段は感じない懐かしさと、あたたかさに包まれました。

当時好きだった男の子。今や本当に立派な男性になっていて、昔話ばかりだったけれど、今の話も聞きたかったな、と帰り道に思いました。

当時は話したこともなかった人。そんな人と少し語れるような時間もとても貴重に思いました。

小学校時代は仲良かったのに、中学でなんとなく疎遠になってしまった人達。それでもこの歳で再会すれば昔のように楽しい時間が過ごせるのか、と。

昔のようにというよりは、今だからこそ昔を楽しい思い出に感じるのでしょう。当時の自分がすごく楽しんでいたのかはやはり不明です。

これが同窓会か!と、はじめての同窓会に興奮した夜でした。

自分自身、高卒フリーターでひたすらにくだらない毎日を過ごしていた時期が長かった為に、尚更地元の人達とは関わらないようにひっそりと過ごしていましたが、今は少し落ち着いた自分。参加してみようと思える自分になっていてよかったなと思いました。

そして私の地元嫌いという認識が薄れた一日となりました。

 

その後は彼の家に帰って、彼の思わぬ本音を聞いて若干絶望しましたが、こんなこともきっと、数年後には懐かしい思い出になっているだろうなと、妙に楽観的に過ごして仕事に向かいました。

未来の自分のために。

3曲目 流浪の詩

こんにちは、白です。

今日は私の大好きな曲について。いつもより短めになりそうですが、是非聴いて欲しいこの名曲。

 

中島みゆき[流浪(さすらい)の詩(うた)]

 

1976年リリースのこの曲との出会いは小学生の頃。今でもドライブの友はこの曲です。誰を隣に乗せてもこの曲を知っている人と出会ったことがありません。といっても友人が少ない為、助手席に人が乗ることの方が少ないのです。

小学生の頃に音楽の授業で、中島みゆきの『時代』を習いました。その影響で中島みゆきが好きになり、借りたアルバムに入っていたのが、[流浪の詩]でした。軽快なリズムに明るいメロディ。前向きで孤独な歌詞。これを口ずさむ小学生はなんとも異様だったのではないでしょうか。曲の意味など考えずに、ただ惹かれた小学校時代。

 

今思えば、あの頃からわたしは、一人で生きる女性に強い憧れがあったのでしょう。

それはきっと、旦那を早くに亡くした母の背中を見て育っていたからなのでしょう。

 

30代になってから、改めて聴いた時、なぜか涙が止まらなかったのです。ママと名付けた黒猫と、顔も忘れたあの人を探す旅。なんて切ないのでしょうか。危うく、私の相棒のインコの名前がママに改名されるところでした。

 

 

[流浪の詩]

作詞作曲 中島みゆき

 

さあママ町を出ようよ 激しい雨の夜だけど

仕度は何もないからはだしでドアをあけるだけ

形見になるようなものを拾うのはおよし

次の町ではそんなものは ただ邪魔になるだけ

いつもこうなることぐらいわかりきってるものだから

必ず町で一番暗い酒場でママは待つ

こんどは西へ行こうかそれとも南

愚痴はあとから聞いてあげるから今は泣かないで

東の風が吹く頃 長距離バスが乗せて来た

あの人の黄色いジャケツ

それから先はおきまりどおりに家をとび出した 遠い遠い昔のこと

何度も人違いをしたわ あの人にはめぐり逢えず

旅から旅をゆく間に顔も忘れてしまってた

それでも旅を忘れて悲しみを捨てて

ひとつ静かに暮らしてみるにはわるくなりすぎた いつか東風の夜は あたしの歌を聴くだろう

死んでも旅をつづける女の歌を聴くだろう

片手にママと名付けた黒猫を抱いて

暗い夜道で風を呼んでいる声を聴くだろう 

3冊目 ピアニシモ

こんにちは。白です。

 

今日はゆっくり読書感想文です。

 

三冊目は辻仁成さんの[ピアニシモ]。

 

私は小さな頃から本が好きでした。幼稚園の頃は恐竜大辞典を夢中で読んだり、『ニルスの不思議な冒険』にハマったり、『クレヨン王国』シリーズを片っ端から読んだり。3人兄弟の末っ子として生まれて、姉兄とは少し年齢が離れておりました。2人と一緒に遊ぶことは少なく、私は母と過ごすことが多かったのです。母は自宅でピアノ教室を開いていたので、私は一人遊びをする時間が多くなりました。その時間に、私を楽しませてくれたのが本だったのです。そして文字を書くことが好きで、新聞記者だった祖父から漢字や文の書き方を教わり、自分で絵本を描いてみたりすることを楽しんでいました。当時は賢い賢いと大人から持て囃されましたが、私はただの凡人でした。でも、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、30を過ぎた私は今でも本を読んで、ブログを書くことで自分を楽しませているのです。

 

そんな幼少期だったからか、国語の授業が好きで得意でした。あまり成績は良くなかったし、勉強は好きでは無かったのですが、当時通っていた塾の、国語の授業は好きでした。そこで出会った先生が、私を更に読書好きにして下さいました。雑談の多い先生でした。本の紹介をしたり、印象的な新聞記事の一文を考察するような話をしてくれたり。いつも国語と繋がりのある、興味深い雑談をしてくれる先生で、大好きな授業でした。一番印象に残っているお話は、中学生が書いた遺書の話でした。

 

人生に対する、ぼんやりとした不満。

 

これが、とある中学生が書いた遺書でした。これに対する先生の感想や考察を、中学生の私達が楽しく聞ける範囲でラフに話してくれたあの授業。もう何年も前の話なのに私は覚えているのです。これ以上印象的な遺書を私は知りません。いまだに覚えているくらいですし、たまにこの言葉は私の頭を過ぎるのです。気持ちを言葉にする時に、あれもこれもと文字が増えてしまい、無駄が多くなり、結局伝えられないということがよくあります。この一文は、たった20文字以内で自分の思いを表現していると感じます。自分が遺書を書く時に、この言葉だけで終わらせられるとは到底思わないのです。でもこれだけで、彼か彼女の苦悩を私達は想像が出来るのです。そして私は、10年以上たっても忘れられないのです。

 

そんな先生が私に勧めてくださったのが、今回の本です。やっと本の話です。たくさんの本を勧めて頂いたのですが、一番初めに勧められたのがピアニシモ。なぜ私に勧めてくださったのかは相変わらず不明です。

 

辻仁成[ピアニシモ]

 

辻仁成さんは有名ですね。[冷静と情熱のあいだ]は映画化もされておりますし。そんな辻仁成さんのデビュー作。1週間で書き上げ、すばる文学賞を受賞したという作品です。1週間で書き上げた、というのも納得の、人の中にある孤独や不安や不満という感情を勢いに任せて書いたような、そんな作品でした。なので、じっくりと作り上げた物語が好きな人は、もしかしたらあまり好きではないかもしれません。生身の人間らしい文章が私は好きでした。好き、という言葉が当てはまるかも難しいですが、引き込まれた物語でした。1990年に出版された話なので、30年近く前の話ということになります。ピアニシモとは音楽用語で『きわめて弱く』。この物語の主人公はタイトル通り、きわめて弱い少年です。

主人公のとおるは、転勤族の父と宗教家の母との3人家族。彼は転校が多く、いじめを受け、家にも学校にも居場所が無いと感じる孤独な中学生でした。そんな彼の唯一の友達は『ひかる』。彼が大変曲者であり、この物語のキーパーソンであり、彼をどんな存在として受け取るかで、この物語の受け取り方も変わると思います。ひかるはとおるにしか見えない幻影。ひかるはいつも過激なことを言う。でも絶対にひかるは、とおるを肯定し続ける。そんな始まりの二人が、物語の中で少しずつ変わっていきます。孤独な少年とおるが創り上げた幻影のひかる。ひかるに依存して、世界との関わりを拒絶するとおる。ですが、とおるが伝言ダイヤルで出会った女性に恋をしてからは、とおるはひかるに対して疎ましさのようなものを感じる描写が出てきます。

私が感じたのはヒカルはただの幻影なのか。ということです。孤独を癒すだけの存在を創り上げた、主人公の弱さを表す存在だったのか。そうではなく、私達の中には必ず『ひかる』が存在しているのだと感じるのです。ひかるととおるの会話は、自分との対話をしているだけだったのではないかと思うのです。そして、思春期の自意識という、強烈な存在を、作者は『ひかる』として描いていたのではないかと思っています。だから外、つまり恋愛をしたことで自己以外のものに興味を持ったとおるは、ひかるを疎ましく感じたのでないでしょうか。

物語の最後にひかるはいなくなりますが、とおるの中には必ずひかるが存在し続ける。ひかるがいなくなることが『自立.成長』のような描かれ方もありますが、私はいなくなるとは思えないのです。ひかるもまた成長し、自分との対話は永遠に続く。大人になるにつれ、外の世界との関わりを作るにつれて、自分との対話をする時間は減るかもしれないけれど、決してなくならないと思うのです。

ハッピーエンドでは終わらないこの物語は、どうやら続編があるらしいことを最近知りました。まだ読んでいないので見つけたら是非読んでみたいと思います。

 

私はピアニシモという言葉が好きです。

きわめて弱い、でも美しい。

その美しいピアニシモの音色を出すのは難しい。

ピアノは叩けば音は出るけれど、美しい音を出すのは難しい。

ピアノの音は、本当に美しいのです。

 

 

この小説を読んだ頃に母から褒められた

 

 

『白ちゃんのピアニシモの音ってとっても綺麗。』

 

 

その言葉が嬉しくて、私はピアノを続けていたのです。

 

 

 

辻仁成[ピアニシモ]

この小説も『きわめて弱い』だけではなく、そこにある思春期の青々しい自意識の美しさも描かれているような、そんな気がするのです。

 

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昨日の出来事

白です。

今日はただの日記です。

 

とにかく毎日更新することが当面の目標なのですが、昨日調子に乗ったせいで今日はひたすらに眠いのです。これから副業のアルバイトに行かなくてはいけないので、更新するなら今しかない…。でも眠い。ちょっと寝たい。あまり頭も回っていない…。

 

そうだ!日記にしちゃおう!

 

という思考回路でした。

 

 

昨日は高校時代の部活の同期と小さな忘年会をした後に、小学校時代の知人と会ってきました。30代になると学生時代の友人との時間は楽しいものです。

 

楽しいものですが、昨日は疲れました。

 

私は元々根暗な性質です。趣味は読書や書道やハンドメイドで何かを作ること。大人数で騒ぐのはあまり好きではありませんし、一人で遊ぶか、少人数で語り合う方が好きです。友達はひたすら少ない。この性質は小学校中学校が1番強かったので、小学校時代の知人なんてほぼいません。同窓会も行きません。でも、高校生になって入った部活の仲間は、運動部のくせに引き籠りのコミュ障気味なメンバーの集まりだったので、彼らとの集まりは結構長く続いています。居心地が良い。

なので高校時代の忘年会は楽しかったのです。

問題はその後です。

小学校時代の知人と久しぶりに会いました。もうなんというか、ギラギラした生きるパワーがみなぎっている人でした。眩しすぎる。

座り方がもう違う。ふんぞりかえって両腕を広げて足を組んで、話す内容は自分の周りのすごい人達との繋がりのことばかり。彼自身のやってることは素晴らしいと思う。周りの人間が有名人ばかりで、お金を持っていて、それはきっと彼がそういう世界に入るだけの努力を重ねた結果は素晴らしいと思う。きっとすごく賢いんだと思う。でもなんでしょうか。私はあまり興味がもてませんでした。

小さな古本屋さんで、本の内容を伝えただけで、これですね!と、嬉しそうに教えてくれた、あの静かな書店員さんの方が、わたしは話をしたいと思う。

そう、生きる世界が違う人。

そういう人と無理して付き合うと、心が消耗します。もっと話がしたい、そう思える人との出会いって本当に大切にしないといけないなと、痛感しました。

高校時代の友人達とも、生きる世界は全く違います。している仕事も、既婚独身もバラバラです。それでも楽しく話せるのは、誰もマウンティングのようなことはしないからで、会話の内容も、自慢もなければ卑屈さもない。単純にお互いに興味を持ち合いながら会話が出来ているからなのでしょう。

これはもう、相性。

小学校時代の知人の彼だって、彼のコミュニティの人達はすごく楽しんでいるに違いない。

相性って本当に大切。

今、周りにいる人達と気が合わないからって、私は人付き合いが下手とか、嫌いとか、苦手とか、そんな風に決めつけてしまうのは勿体ないと思いました。そして、合わないなぁと思ったら、無理する事はない。ただそれだけ。

 

だってこんなに疲れるのだもの。

 

小学校の同級生達とは、わたしの彼の働くバーで会いましたが、私はその席を早々に離れ、たまたま来ていた彼の友人と、のんびり話をする方を選びました。その時間の方がよっぽど楽しかったです。きっと同級生からはあまりよくは思われなかっただろうけれど、そんなことを気にしていたら、心がいくつあっても足りなくなってしまいます。

 

無理はよくない。

 

 

 

 

2曲目 もうひとつの土曜日

白です。

今日も本ではなくて歌にまつわる思い出話を。

感想でもなく、今日は思い出話です。

 

今回は浜田省吾さんの

[もうひとつの土曜日]

 

はましょーファンならみんな大好きな曲のはずですが、私の年代だとあまり有名ではないんですよね。この曲、歌詞はもちろん心にしみるのですが、個人的な思い出がたくさん詰まっているのです。

 

私の父は私が4歳で亡くなっているのですが、そんな父がよく口ずさんでいたこの歌。当時4歳の私が覚えていたのか、それとも誰かから聞いてそれを覚えたのか。ハッキリは覚えていませんが、物心つくころにはよく口ずさんでおりました。ただ、今みたいにネットで検索すぐ聞ける!という環境ではなかったので最初のワンフレーズを延々と繰り返すだけでした。

 

『昨夜眠れずに、泣いていたんだろう

 彼からの電話、待ち続けて』

 

ここだけです。笑

 

この曲を初めて全部聞いたのは18歳の時でした。

 

18歳で母が亡くなり、私は荒れに荒れた生活を始めます。学校にはほぼ行かなくなり、通わせてもらっていた予備校もサボり、成績は落ちるところまで落ちて、高校を中退までしてしまいます。

 

絵に書いたようなヤサグレ方を謳歌

 

そのころに私は、恋愛という脳内麻薬物質を撒き散らす最高の逃げ場を見つけました。心配する家族を無視して、男に依存するという行為に走るのです。最初は同級生の男の子でしたが、幸せな家庭にまっとうな人生を歩む同級生が、羨ましくて、妬ましくて。どんなに優しい言葉をかけてくれても、受け入れることなど出来ず、自身の不幸を外に撒き散らして当たり散らすという、恐ろしい恋愛をしていました。みんなよく付き合ってくれたと思います。

 

感謝。笑

 

そして私は同世代の男では満足出来ず、出会い系に手を出すようになります。出会い系で知り合う人は大人で、楽でした。当時楽しかったのかは正直不明ですが、ちやほやされて、気持ちよかったのでしょう。

 

そんな時に出会った17歳上のこーじさん。私は彼にすっかりハマってしまいます。

 

外車に乗って夜景の綺麗なスポットへ。

美味しいご飯にちょっといいホテル。

流れ星を見て、君の幸せを願うよ、なんて甘い言葉にすっかりハマってしまうのです。

何度も大人なデートに連れて行かれ。

 

そして奈落の底に落ちていきます。

 

当時の私は男のことなど全く知らない、性欲と愛情が切り離されたものであることなど、頭の片隅ですら理解していない子供だったのです。ましてや、こんな可哀想な私に酷いことをする人間なんて家族以外いないに違いない、という大きな勘違いと、根拠の無い自信を持っていたのです。

 

彼と結婚して私は幸せになれるんだと、本気で思っていました。

 

ですが、彼には彼女がいました。

 

ある日突然言われて、でもこれからもこういう関係でいようね!というセフレ宣言を受けるのです。

 

犯罪です。

 

でも私は

それでもいいから傍に居たいと願いました。

 

愚かです。

 

犯罪者と愚かな子供の本当にどうしようもない下らない時間だったと思います。そしてセフレ宣言を受けてからは完全に彼女を優先され、私は深く傷付き落ち込みます。

そして怖い女へと変貌していきます。

 

深夜に残す大量の着信。

返信も無いのにメールを送り続ける。

突然の自宅訪問。

彼の駐車場での待ち伏せ

 

当然のように彼は逃げました。

そして私は初めての失恋に更に狂うのでした。

 

眠れない夜。

来ない連絡を待つ夜。

ノートに書き綴るポエム。

更に出会い系で男漁り。

 

当時の様子を姉はこう語っていました。

 

『白の後ろに黒い塊がいつもついて歩いていた。』

 

失恋って怖いです。笑

 

そして1人フラフラ歩いている時にレンタルCDショップに入って浜田省吾さんの[もうひとつの土曜日]を見つけました。

 

帰宅後、初めて全部を聴きました。

泣きました。

これでもかというほど、私は号泣しました。

 

父は私のこの日のために、この曲を歌ってくれていたのではないかと、絶対そんなわけないのに当時は思っていました。娘が出会い系にハマり、17も歳の離れた男にポイ捨てされることを想像する父親がどこに存在するんだとツッコミたいところです。

 

 

昨夜眠れずに泣いていたんだろう

彼からの電話待ち続けて

テーブルの向こうで君は笑うけど

瞳縁取る悲しみの影

子供の頃君が夢見ていたもの

叶えることなど出来ないかもしれない

ただいつも傍に居て

手を貸してあげよう

受け取って欲しいこの心を

 

 

ここで、号泣です。一体自分が何を夢見ていたのかも分かりませんが、一晩中泣き続けました。

 

その後は色々あって専門学校に通うのですが、やはり挫折して退学。そして私は風俗嬢になりました。

 

風俗をはじめてから、とあるドライバーさんと出会います。彼は大変寡黙な人でした。そんな寡黙なドライバーさんと、何かのタイミングで浜田省吾が好きだという話になりました。その話をしてからそのドライバーさんは、私が車に乗ると、必ずCDを浜田省吾に変えてくれるようになりました。

 

さりげなく。

 

決して私に、どうですか?とか、浜田省吾用意しましたよ!とか言わずに。この曲はあーだこーだとか、そんなことも言わずに。

 

その無言の車の中で、私は押し付けない優しさというものに触れました。

 

本当に静かで、優しい時間でした。

 

風俗嬢とドライバーという、社会から少し切り離されたような二人の、悲しい空間のはずなのに。